なんだ大丈夫じゃん

イラストと文で紡ぐ母と娘の日々のこと。

呼吸

息が苦しい。浅くせわしない呼吸ばかりしている。新しいことを吸収し、古いものを吐き出すことを拒否しているみたいに。ストレスだろうか?なんでもストレスのせいにして悪いけれど、便利で誰でも納得してしまう理由だから、表向きはそうしておこう。本当の原因なんて自分でも分からないのだから。

今日は特に息を吸えていない。昨日の夜食べたものが体に合わなかったらしい。一日かけじわじわと体中を回る原因物質。遅延型アレルギーっぽい。食べたものを調理した人の”気”も私に合わなかったのだろう。後悔しても仕方ない。布団の上で七転八倒する私。

新しい空気を吸いたい・・。空気清浄機が古くなり処分したことも原因かもしれないが、部屋の空気も淀んでいるようだ。娘に窓を開けてもらい、外の空気を部屋の中に取り込む。少しひんやりとした空気。意識して大きく深く息を吸って吐く。新鮮な空気が体を満たしていく。少し楽になる。意識して呼吸をしているからかなかなか眠りにつけない。息をすることに集中しすぎている。激しい頭痛もあるけれど、自然に呼吸できていないのも寝れない原因の一つだろう。わざとらしい深呼吸。まるで演技をしているみたい。でも今はこうやって息をするしか手立てはない。苦しさに浅く早くなる呼吸と深くゆっくりしようとする自分の意識。そんな攻防を繰り返しているうちに、いつの間にか眠っていた。薬も効いたのだろう。

ふいに目が覚め、真夜中に一人ライトをつけ、この文を書いている。自分に合わないものを体外に排出したり、解毒したりする体。毒はどこにいったのだろう?私の心の毒もこうやってなくなればいいのに・・・。ダメだ。どんどんとネガティブになっていしまう・・・。これも”夜”のせい。”ストレス”のせい。今は原因を外に押し付けてライトを消し、眠ることにする。朝になり、体も心もクリーンになっていることを願いながら。

 

 

ぬるま湯

ぬるま湯に浸かっている。

そんな気がした。

全て何となくやってきたのではないか。

全力で取り組んできたのか。

本気になったことはあるのか。

そんなことを追い込まれたときに思う。

思うだけだったのではないか。

行動に移せたのか。

夢に向かう努力はしたのか。

何となくでいいや、また明日からと怠けているのではないか。

頑張ってこなかった訳ではない。

頑張る方向が少しずれていただけなのかもしれない。

やるからには、全力で行きたい。

生まれたからには、全力で生きたい。

そう思う。

 

 

心落ちつく毛糸玉との時間

昨日からまた編み物を始めた娘。夢中になって編んでいたから買った毛糸の2玉はすぐになくなってしまった。どうやら大物にチャレンジしているようだ。「編めるか分からない」と2玉しか買わなかった毛糸。買い足そうか悩んでいる理由のひとつには毛糸の値段の高さもあるようだ。「何でもやりたいと思ったらやってみたら」と私。

何が元気になるきっかけになるか分からないのだ。そう思えば高くなんかちっともない。私は仕度が遅いから「一人で行っておいで」と言うと「うん」と言って車に一人乗り込んだ。玄関の所で私が見送るために立っていると、車の窓を開け娘が「母さん、私ショッピングセンターに一人で行くのは倒れてから初めてかもしれない」と言った。

そうか・・・そうだった。倒れてすぐの頃は、寝たきりで外にも出られず、車の運転もしばらくできなかった。少し外に出られるようになってからも、買い物の途中でしんどくなって、お店のベンチで休んでいたりなどしていた。どうしても無理な時は、買い物や外出を諦め引き返して帰ることもしばしばあった。

少しずつ少しずつだけど良くなっている。今、普通にできることも、少し前はできなかったのだ。焦る事なんてない。人生で少しくらい休んだってどうってことないのだ。いつでも巻き返せる。大丈夫。今やりたいと思う気持ちを大切にして”できる”を増やしていこう。歩みは遅くとも一歩一歩確実に前に進んでいる。人それぞれのスピードで人生は進む。人と比べなくても自分のはやさでいけばいい。ただそれだけのことだ。

 

努力と我慢

努力と我慢は違う。

我慢していることが努力していることとイコールにはならない。

ここでは、ダイエットでお菓子を我慢するという努力とは話が違う。

我慢したから、報われてもいいでしょと思って理不尽にも我慢を続けてしまう。

報われるのは我慢ではなく、努力だ。

どんな状況においても我慢して頑張ってる。

報われても当然だ。

しかし、現実はそううまくいかない。

我慢したからって、必ず報われるとは限らない。

我慢を強いられてしまうことだってある。

理不尽にも程がある。

でも現実はそんな気がする。

 

終着駅

行先が分かっていたら、この急な変化も安心して受け入れられるのになと思う。終着駅を告げられず電車に乗せられていたのでは、車窓からの眺めも、おいしい駅弁も楽しめない。座っていても、どこか落ち着かず心がそわそわしてしまう。今はそんな感じだ。

自分と同年代の人を見てみると、今までの人生で培ったものが周りの人の役に立っていたり、感謝されたりして過去のノウハウをわりとそのまま続けていられる人も多いように思う。もちろん昔のままではなく、”今”も上手に取り入れ努力しているからこそなのだけど。でも私は今、過去のやり方を全部捨てなくてはいけなくなっている。考え方や方法など、それは生活全般にまで及んでいて、今までは良かったものが逆に害になったりと、どうしていいか正直分からなくなってしまった。でもめげずに何度チャレンジしてもまたやり直し、そんな毎日に心底ほとほと疲れてしまった。

過去のよかった記憶に縛られ、その延長線上でしかものを考えられなくなっているのかもしれない。昔がすごくよかったかと言われれば微妙なのにも関わらず、古いやり方をを踏襲してしまっていいる自分。これでは先に進めない。延長線上ではない、一歩外に出た未来へ進み新しくなるには捨てなくてはならないものもある。分かってはいるのにどうして私はこの年になって全てを捨てなくてはならないのだろうと少し思ってしまう。新しくなるのに、準備する時間なんて本当は必要ないのに、ちょっと待ってと戸惑う自分がいる。往生際が悪いにもほどがあるというものだ。

失敗するたび、自分が自分の中でどんどん無価値になり、自分の存在に何の意味も見いだせなくなってしまった。今、私を乗せた電車は長いトンネルの中を走っているのかもしれない。真っ暗で何も見えない窓に映る不安で悲しそうな自分の顔を見る私。ガタンゴトン、一人ぼっちの電車に響く電車の音。しばらくトンネルは続くのだろうか?生まれる前に決めてきた自分の終着駅・・・今は忘れてしまっている。どこに行くのかな?私は・・・。

 

アクセサリーをつけようとしないとき

気力がない。

そんなときって、最低ラインの事しかできない。

着替えて外出するとき、元気なときとは全然違う自分がいた。

アクセサリーを付けない。

時計すら忘れている。

服もゆったりしたのを選ぶ。

ネイルも塗れない。

メイクも髪も最低限。

プラスアルファ的な事ができない自分。

そもそもしようとすら思えていないのだ。

気力がないときは、それでもいいと思う。

無理に頑張る必要もない。

顔洗って、歯磨きして、着替えて、身支度を整えて、それだけで十分。

元気が出たら、また頑張ろう。

 

予言のヘラ

気が付けばいつの頃からか裁縫箱の中にあったピンクのヘラ。どういう理由で私の元にあったのかは忘れてしまってよく分からないけれど、印をつけるためのそのヘラには、カタカナで名前が彫ってあった。大人になってもその裁縫箱をしばらく愛用していたけれど、ヘラで印はつけずいつもチャコペンかルレットとチャコペーパーを使っていたから、存在をすっかり忘れていた。

結婚して数年経ったとき、裁縫箱を新しくしようかなと思った。物が増え、手芸の材料や道具が入りきらなくなってしまったからだ。木製で引き出しがついた少し大きめのものを購入して、そこに移し変えることにした。糸や針、ハサミ、定規、リッパーなど細々色々ある。木の引き出しに一つずつ入れていく。針山は一番上のオープンになるところに入れた。そうして移す作業をしていたら、忘れていたヘラが底の方から出てきた。あれ?小学生の時、いつの間にか私の裁縫箱に入っていたやつだ。手に取りその彫られた名前を見て驚いた。そのカタカナで彫られた名字は結婚した私の名字だったからだ。

数十年の時を越えその名字になっていた私。残念ながら、何回かの引っ越しと断捨離により、ヘラは失くしたか処分したかで、今はもうない。ヘラはその名字に私がなるのを知っていてそっと私の裁縫箱に入っていたのだ。とっても不思議だけれど、こういうことってあるんだなあと最近また手芸をはじめて思い出したのだった。ほんと不思議。